甘露寺について
寺伝
明治十五年頃、旧 栗原郡北部の門信徒は、称念寺歴代の住職及び幾多の人々教化伝道によってご縁をむすばれ、旧 若柳町新町平塚清兵衛宅に「道場」が開設されていた。明治三十五年に本願寺布教使井上安祥師を中心に門信徒とともに同町元町九番地の土地を買い求めて本願寺説教所を設立し、柴田宣照、龍原孝順、楯玄一の各師により御法義相続が勤められた。柴田宣照師は当地に寺院建立を願い、北海道に開設した寺院を長子宣妙に譲り、来町して各方面に働きかけるも、宗教政策により許可されず苦慮していた。そこで弟の称念寺住職柴田宣海師と図り、同寺内「甘露寺」移転を画策した。
そもそも甘露寺は、明応七年に蓮如上人が病重しと聞き、称念寺第七世無為住道順がお見舞いに参上したところ大層喜ばれ、御本尊を拝領、そこで寺内に「味妙山甘露寺」と号する一字を建立して賜りたる御本尊を安置し、称念寺住職隠退寺としてきたものである。
宗教政策厳しく移転も難しかったが、時の内大臣清浦奎吾伯爵との縁により、大正九年四月十日に宣海師へ元町移転が認められた。その後、住職は宣照、宣妙と引継がれたが、昭和の本向坊と呼ばれた十九世宣妙は、富山別院副輪番の時、昭和十二年五月三十日、火災で宝物物を運び出しながら殉職した。昭和十五年に堀本幸信が住職となり、伝道の範囲を東北新生園、鶯沢町に伸し、門信徒と図って十ヶ年計画を立て、寺院移転、本堂、客殿、庫裡等の建築及び境内整備、墓地等拡張を行い、昭和五十七年八月二十六日、前門主勝如上人様お立ち合いのもと、二十一世堀本英信継職奉告法要を勤め、現在二十二世堀本教信が継職。 |
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